バレーを好きな方たちには本当にポピュラーな作品群「ロミオとジュリエット」「シンデレラ」「石の花」等バレーの公演には欠かせない20世紀ロシアの作曲家プロコフィエフは私のピアノ学習人生にとっても忘れえない大事な人です。といっても彼の亡くなった年に生れていますから本物を見ることは出来なかったわけですが、その昔ディズニーの番組の中でウォルト・ディズニーとにこやかに握手している場面が忘れられません。当時はまだ冷戦の時代で自由にソ連を出国するのは難しかっただろうにです。小学6年の時にヤマハの店頭で見つけた私の大事なレコードがプロコフィエフの自作自演の3番のピアノ協奏曲と小品群でした。それからというもの音楽大学在学中には7番・8番のソナタという代表的な作品を試験で弾くことが目標で夢中になっていたものです。前にも述べましたルロイ・アンダーソンと双璧をなす希望に満ちた作品群を残してくれたプロコフィエフがなんと日本で3回もコンサートを開いてくれていたのです。大正7年の7月に帝国劇場で2回、横浜のグランドホテルのコンサート会場(ニューグランドホテルの前身ですが関東大震災で崩壊し廃業してしまいました。現在の人形の家のあたりにありました。)で7月9日の夜に自作のソナタやシューマン・ショパン等を弾いたようです。革命のさなかで落ち着いた創作活動もままならなかった彼はアメリカ大陸に渡る決心をしてシベリア鉄道経由で敦賀に渡航し東京に来たのです。評論家の大田黒元雄(ドビュッシーの音楽論なども紹介している。)となんと意気投合してしまったのです。毎日のように大田黒家でホームコンサートを行ってドビュッシーやラヴェルなどの曲もよく弾いて喜ばれたようでその尽力もあってコンサートを開き船旅代を稼ごうとしたのです。この時のチケット代はなんと横浜の方が高額で5円(約1万5千円)東京の方は特等席で1万円位と違いがあり東京の方は特に2回目は満席に近い入りだったようです。横浜のコンサート当日は彼の日記にもあるのですが入場料が高く入口であきらめて帰ってしまう人をたくさん見たと言っています。しかもトッカータや悪魔的暗示といった技巧的な曲は拍手喝采でしたがその他については日本の人は静かに聴いているのみだった、と書いています。面白いのは彼の作品のような当時の前進的な音楽でも別に驚いたふうでなかったとの感想でまたそれはヨーロッパの音楽は古くても新しくても同じに聞こえたのではないのかとも記しています。このあと8月にアメリカに向けて旅立つのですが最終的には母国「ロシア」に腰を落ち着けるのです。最後の交響曲第7番「青春」は全国に同時放送で青少年へのメッセージとして送られましたが、それは素晴らしい交響詩でのびやかな明るい曲で大好きな曲です。